本日の
日経新聞の東京面に、『北区おでん』の取り組みが掲載されました。
スタッフとしましては、恐縮至極であります。
今まで以上に。慎重かつ大胆に行動していこうと思います。
弊社は、東京商工会議所の北支部に所属しています。
何か、役員をやっているわけじゃないんですが、『地域活性化グループ』のメンバーとして参加しています。
数年前より、北区と共同して、『北区をおでんで活性化』しようというワーキングを行っております。
新聞の記事にもありましたように、3/2に北区長も参加するイベントを行う予定です。
現在、作業は急ピッチで行われています。
今日は、何でおでんなのか? というお話をさせていただきます。
ちょっと、長いです。
僕は40数年北区赤羽に暮らしている。
(あえて、『僕』)
子供の頃の食べ物の思い出と言えば・・・
毎日通う家の前の駄菓子屋「佐藤さんち」、岩井肉屋のコロッケ(ソース掛けて!)、屋台の石焼芋のおじさん、旧西友1号館1階名店街の立ち食い寿司屋とジュースバー、大阪屋のエビフライとモカパフェ、不二家のソフトクリーム、ブラジル洋菓子店のアップルパイ、自転車で来る豆腐売りのおじさん、車で日曜日ごとに売りに来る玄米パンのホカホカ、夜鳴きソバは怖くて食べたくなかった、赤羽公園の自転車で来る駄菓子屋さん、三晃フードの鯛焼き屋さん、みつわやで初めて食べたグレープフルーツ(葡萄じゃなくてビックリした)、
そして、大好きだった正光寺に来る屋台のおでん屋さん
友達は、ハンペンに味噌ダレを付けてもらっている。
今思うと、外が青で中が白い、円筒形のホーロー引きの入れ物。
僕は、味噌ダレを付けて食べた経験が無かったので、何回かは、そのまま素で食べていた。
その後、ちょっと大人になろうと思って、「味噌付けて!」と言ってみた。
「はいよ」おっちゃんは、普通に付けてくれた。
意を決して注文したのに、それはあっけなく手に入った。
そして
本当に美味しかった。
アップルパイは、家では作らなかったけど、おでんは家でも作った。
勿論、母親が作ってくれたのだが
その頃、都電終点の脇に、まだ「環8通り商店街」というのが存在していた。
往復で2車線の環八と言うには、狭すぎる時代の環八
母は、樋口食料品店(現存)で材料を買ってきて鍋に入れてくれた。
当時の家族は、僕を中心にすると
祖祖母、祖父、祖母、父、母、姉、僕
7人家族だった。
祖父と祖母は、寝泊りは、家から3分ほど離れた所でしていたが、食事はいつも一緒だった。
大人数で鍋を囲み、めいめいが好きなものを取る。
一番年少の僕は、一番威張っており、遠慮をしない。
好きなものからドンドン取っていく
二つ上の姉は、好きなものは後で食べたいタイプ
僕が姉の分まで手を出すと姉は怒って訴えたが、大人は末っ子に甘い。
「お姉ちゃんなんだからー」
お母さんは一番街の丸健水産で、出来合いのものも買ってきた。
ビニール袋にパンパンに入れてくれる。
それを家の鍋にあける。
まぁ、今考えてみれば、手抜きだ
しかし、その頃、うちは町工場をやっていて共稼ぎだったので仕方が無いだろう。
というよりも、そんな状況でも、毎日、夕方になると、エプロンを付けて買い物籠を持ち、強引に付いて来る子供2人と一緒に一番街辺りまで買い物に行っていたうちの母親は、偉いんだなーと思う。
まぁ、あの頃は優しいお母さんだったが、今は口煩い母親だ。
先週、母親の76回目の誕生日だった。
おめでとうございます。
我が家でもっとも元気だ。
飼い犬の茶太郎@トイプードルよりも元気だ
おでんは、
ファーストフード(買い食い・おやつ)であり
家庭で作るれっきとした食事でもあり、
手軽なテイクアウト(丸健)でもあった。
聞けば、王子の先、梶原辺りでも同じような光景があったようだ。
僕にとっては、『赤羽の』であるが、『北区の』子供だった人達の共通の記憶なのではないかと思う。
日常に存在していた。
それがおでん
特に珍しいわけでもないし、名産や特産ではない
ただ、この光景、体験はこの地域特有だと思う。
何故、おでんなのか?
◎北区名産の野菜があった
・滝野川牛蒡
・滝野川人参
・赤羽大根
牛蒡巻き、人参はおからと混ぜて巾着の中へ、大根はご存知ですね
◎地下水が美味しい
23区唯一の造り酒屋があることでも明白
その美味しい水を使って、おでんだね屋さんが多数存在していた。
魚のすり身を原料にしたものは、勿論多いが
・ ちくわぶ ・こんにゃく ・白滝 の専業業者も今も現存している。
綺麗な水は、美味しい豆腐も生み出す
がんもどき、巾着、厚揚げ
◎そう、油揚げは王子の狐の大好物
おでんの語源は『田楽』から
味噌田楽の田楽
こんにゃくだけの田楽から、色々な種が入った、御田楽、おでん と変化したようだ。
では、何故に、田楽?
田楽とは、田楽舞
田んぼの豊作を願う催し、祭事
その際の田楽法師の格好に、こんにゃく田楽が似ていたからという伝承も有る。
◎王子神社の田楽舞は、五穀豊穣を願うものではなく、泰平を願うものだったそうだ。
この例は珍しいらしい
別の話
戦後、赤羽は闇市が栄えた。
何故か?
東北線の終点、上野駅の取り締まりは厳しかったので、その手前で降りたらしい。
闇市では、その場で食べられるものも多く売られていて、関西の地で『関東煮』と呼ばれていた おでんが、関東の地に復活してきたのもこの頃のようだ。
関西名物関東煮 この訳の分からないものが現在の おでんの直系らしい。
以上まとめる
・おでんの語源の田楽舞が王子神社で行われている
・綺麗な地下水を元にして、各種おでん種の製造が行われている
・原材料の野菜の原産地である
・今の形のおでんが終戦直後より昭和の時代席巻していた。
・立ち食いの店、出来たもののテイクアウトの店、種のテイクアウトの店、イートインの店(大衆店、高級店)と種類が豊富
(すべてを満たす、平澤かまぼこ なんて店もある)
・味噌ダレ
・北区周辺のおでんは、単に食べ物ではなく、『生活感』があった。
これを更にシェイプすると定義になりそうなんだがなー